1986-03-25 第104回国会 衆議院 大蔵委員会 第10号
だから、戦争中といえども、例えば東条内閣時代の賀屋興宣蔵相、小磯内閣の石渡荘太郎さん、あるいは鈴木内閣の広瀬蔵相等々、これを一貫して守ってきた。
だから、戦争中といえども、例えば東条内閣時代の賀屋興宣蔵相、小磯内閣の石渡荘太郎さん、あるいは鈴木内閣の広瀬蔵相等々、これを一貫して守ってきた。
前田君は、明治四十二年和歌山県に生まれ、少年時代から俊秀の誉れ高く、東京帝国大学法学部卒業後、逓信省に入り、昭和十九年小磯内閣の成立を見るや、運輸通信大臣前田米藏氏秘書官に抜てきをされ、当時政界きっての老練な政治家として定評のあったこの郷里の大先輩から一方ならぬ薫陶を受けられたのであります。このことは、後日、君が人情味豊かな政治家として大成する縁となったことでございましょう。
本院に議席を得られてからの先生は、終始熱心な態度で国政の審議に参加して、よく議員としての職責を果たし、また昭和十九年には小磯内閣の厚生参事官として、多難な時局にあって厚生行政に参画し、その力量を遺憾なく発揮し、大いに将来を嘱目せられたのであります。
このような政治記者としての活躍を通じて、次第に君の関心は政治そのものへ向かい、その後、小磯内閣の児玉国務大臣の秘書官となり、また吉田内閣の総理大臣秘書官となるに及んで、政治家たらんとする君の意思はいよいよ確固たるものとなったのでございます。 昭和二十二年四月、第二十三回衆議院議員総選挙が行なわれまするや、君は、勇躍して郷里新潟県第二区から立候補し、みごと当選の栄をになわれました。
昭和十七年、君は政界に志して次官を退き、第二十一回衆議院議員総選挙に青森県第一区から出馬し、みごとに当選され、昭和十九年には、その力量才幹を認められて、小磯内閣の法制局長官兼内閣書記官長の重職に迎えられ、多難な時局に身をもって当たられました。
〔議長退席、副議長着席〕 ところで、一九四五年に至り、時の小磯内閣は、最高方針にのっとり、ドクー総督に最後通牒を突きつけまして、ここにバオダイ皇帝の擁立によるかいらい政権を樹立したのが、同じ四五年の三月九日でした。日本からは、当時公使であった横山正幸氏がベトナム帝国最高顧問として入り込んだのであります。
その後、ポートランド領事、外務事務官、パリ講和会議全権委員随員、条約局第一課長、上海総領事、中華民国駐創特命全権公使等を経て昭和八年外務次官となり、その後、昭和十一年より、特命全権大使として、ソビエト連邦、英国、中華民国等の各国に駐在し、昭和十八年四月には東条内閣の外務大臣、翌十九年七月には引き続き小磯内閣の外務大臣兼大東亜大臣に任ぜられました。
昭和十九年、小磯内閣の成立に際しては、その人格識見を望まれて入閣し、国務大臣兼情報局総裁に任ぜられ、さらに鈴木内閣の顧問となり、昭和二十年八月に貴族院議員に任ぜられました。戦後、東久邇内閣成るや、国務大臣兼情報局総裁及び内閣書記官長として、当時の政治、経済、社会等、異常な混乱の中から、きわめて困難な戦後処理の重要な任務に当って大きな功績をあげられました。
それのみならず、電光さんは小磯内閣当時外務大臣として繆斌事件というものが起きました。小磯首相並びに現在の自由党の総裁である緒方さんとの間において意見の疎隔を来たして、明治憲法の外交特権、これによって外交は一元的に運営すべきものだと強く主張されたということを私は記憶しておるのでございます。
併しながら、副総理が現実に戦時小磯内閣の情報局総裁といたしまして、我が国の戦争政治の中心にあつて、軍部とこの大戦に従事する戦争指導者として右翼との関係が浅からずあつた経歴であるということは、これは明らかでございます。且つ又今回保安庁が設置せられまして、保安庁長官に緒方副総理が擬せられた、或いは御自身も保安庁長官に就職することを、或いは希望せられたというような風評もある。
あなたはかつて、ともかく戦争中は何といつても小磯内閣の内務大臣をやられたのですよ。(「もうわかつたよ」と呼ぶ者あり)わかつたじやない。いや、私は、これはあなたが文部大臣だから言わしてもらいたい。私の気持も察してくれ。私は決してへんぱな気持で言つているのじやない。文部大臣だから私は申し上げる。いいですか。文部大臣をあなたがやられたのは、——大正五年に東大の政治学科をあなたは卒業なさつて……。
それからもう一つ、今仰せられた総武装というのは、どうもはつきりとは記憶はありませんが、小磯内閣の末期に総武装という――これはちようど議会の開会中に院内の閣議で提案されたような記憶があります。これは小磯内閣の末期だと思うのです。あるいは日が違つているかもしれません。その場合に私ははつきりこれに反対をして、その案の提出を一応見合せてもらつた覚えがあります。その記憶は確かにあります。
私はどうも日本の政治家や外交官は軍事知識が乏しいために、今まで負ける戦争でも勝つなんと言うておだてられて、小磯内閣、東條内閣あたりの閣僚がみんな協力したので、もう懲り懲りしております。私は軍事専門家にはつきり意見を聞いて、減らすものは減らすべきではないか、そう思いますが、いかがでございますか。
あなたが過去にシンガポールの市長として、あるいは小磯内閣の内務大臣としてのあなたのその行動なり業績なりについて、今日どのような御反省をなさつているものかどうかという点について、疑つている人々がございますから、この機会にあなたの反省なされておる点を、ひとつお聞かせ願いたいと思います。
御承知のごとく、今度の吉田内閣は、古代模様と近代主義とをまぜまして、戦後の優秀なる若い大臣を出し、また東条内閣、小磯内閣のいわゆる敗戦内閣の閣僚中、罪の軽い二等閣僚もしくは三等閣僚を(笑声、拍手)抜擢いたしております。私に言わせれば、戦後の日本民主化に何らの貢献なく、何らの経験なき者が、俄然として吉田総理の好みによつて出たのでありますが、この抜擢の理由いかんということをお尋ねいたしたい。
情報局が今度できて、緒方君あたりが総裁になるかしれぬが、かつての小磯内閣の当時のように、サイパン奪還を宣伝したり、レイテが天目山だと宣伝し、レイテが陥ちたら今度はルソンが天目山だという。そういうようなことで再びやつてもらつては困るのであつて、やはり真実は真実として語つて、国民に決意を促さなければいかぬと思う。岡崎国務大臣の御所見を問います。
この請願は前の朝鮮の政務總監をせられ、小磯内閣當時の書記官長をせられた田中武雄さんが、特に私に御依頼になつてここに請願に及んだ次第であります。言葉は少いのでありますけれども、大體において皆樣もこの事情は御承知のことと存じますので、私から多くは申しません。私たちの氣持をお察しの上、何とぞ皆樣方の御支持を得まして、採擇の上當局において善處をせられるようにお取計らい方を願いたいと思います。