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19件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1978-01-21 第84回国会 参議院 本会議 第3号

前田君は、明治四十二年和歌山県に生まれ、少年時代から俊秀の誉れ高く、東京帝国大学法学部卒業後、逓信省に入り、昭和十九年小磯内閣成立を見るや、運輸通信大臣前田米藏秘書官に抜てきをされ、当時政界きっての老練な政治家として定評のあったこの郷里の大先輩から一方ならぬ薫陶を受けられたのであります。このことは、後日、君が人情味豊かな政治家として大成する縁となったことでございましょう。  

加瀬完

1964-11-20 第47回国会 衆議院 本会議 第2号

このような政治記者としての活躍を通じて、次第に君の関心は政治そのものへ向かい、その後、小磯内閣児玉国務大臣秘書官となり、また吉田内閣総理大臣秘書官となるに及んで、政治家たらんとする君の意思はいよいよ確固たるものとなったのでございます。  昭和二十二年四月、第二十三回衆議院議員選挙が行なわれまするや、君は、勇躍して郷里新潟県第二区から立候補し、みごと当選の栄をになわれました。

井伊誠一

1959-10-30 第33回国会 衆議院 本会議 第5号

議長退席、副議長着席〕 ところで、一九四五年に至り、時の小磯内閣は、最高方針にのっとり、ドクー総督最後通牒を突きつけまして、ここにバオダイ皇帝の擁立によるかいらい政権を樹立したのが、同じ四五年の三月九日でした。日本からは、当時公使であった横山正幸氏がベトナム帝国最高顧問として入り込んだのであります。

松本七郎

1957-01-31 第26回国会 衆議院 本会議 第3号

その後、ポートランド領事外務事務官パリ講和会議全権委員随員条約局第一課長、上海総領事中華民国創特命全権公使等を経て昭和八年外務次官となり、その後、昭和十一年より、特命全権大使として、ソビエト連邦、英国、中華民国等の各国に駐在し、昭和十八年四月には東条内閣外務大臣、翌十九年七月には引き続き小磯内閣外務大臣兼大東亜大臣に任ぜられました。

松岡駒吉

1956-01-31 第24回国会 衆議院 本会議 第5号

昭和十九年、小磯内閣成立に際しては、その人格識見を望まれて入閣し、国務大臣情報局総裁に任ぜられ、さらに鈴木内閣顧問となり、昭和二十年八月に貴族院議員に任ぜられました。戦後、東久邇内閣成るや、国務大臣情報局総裁及び内閣書記官長として、当時の政治、経済、社会等、異常な混乱の中から、きわめて困難な戦後処理の重要な任務に当って大きな功績をあげられました。  

鈴木茂三郎

1955-04-06 第22回国会 衆議院 外務委員会 第3号

それのみならず、電光さんは小磯内閣当時外務大臣として繆斌事件というものが起きました。小磯首相並びに現在の自由党の総裁である緒方さんとの間において意見の疎隔を来たして、明治憲法外交特権、これによって外交は一元的に運営すべきものだと強く主張されたということを私は記憶しておるのでございます。

森島守人

1954-03-19 第19回国会 参議院 本会議 第21号

併しながら、副総理が現実に戦時小磯内閣情報局総裁といたしまして、我が国の戦争政治の中心にあつて、軍部とこの大戦に従事する戦争指導者として右翼との関係が浅からずあつた経歴であるということは、これは明らかでございます。且つ又今回保安庁が設置せられまして、保安庁長官緒方総理が擬せられた、或いは御自身も保安庁長官に就職することを、或いは希望せられたというような風評もある。

山下義信

1954-03-15 第19回国会 衆議院 文部委員会 第17号

あなたはかつて、ともかく戦争中は何といつて小磯内閣内務大臣をやられたのですよ。(「もうわかつたよ」と呼ぶ者あり)わかつたじやない。いや、私は、これはあなたが文部大臣だから言わしてもらいたい。私の気持も察してくれ。私は決してへんぱな気持で言つているのじやない。文部大臣だから私は申し上げる。いいですか。文部大臣をあなたがやられたのは、——大正五年に東大の政治学科をあなたは卒業なさつて……。

小林進

1954-03-10 第19回国会 衆議院 法務委員会 第16号

それからもう一つ、今仰せられた総武装というのは、どうもはつきりとは記憶はありませんが、小磯内閣末期に総武装という――これはちようど議会の開会中に院内の閣議で提案されたような記憶があります。これは小磯内閣末期だと思うのです。あるいは日が違つているかもしれません。その場合に私ははつきりこれに反対をして、その案の提出を一応見合せてもらつた覚えがあります。その記憶は確かにあります。

大達茂雄

1953-07-04 第16回国会 衆議院 予算委員会 第15号

私はどうも日本政治家外交官軍事知識が乏しいために、今まで負ける戦争でも勝つなんと言うておだてられて、小磯内閣、東條内閣あたり閣僚がみんな協力したので、もう懲り懲りしております。私は軍事専門家はつきり意見を聞いて、減らすものは減らすべきではないか、そう思いますが、いかがでございますか。

北昤吉

1953-07-04 第16回国会 衆議院 文部委員会 第7号

あなたが過去にシンガポールの市長として、あるいは小磯内閣内務大臣としてのあなたのその行動なり業績なりについて、今日どのような御反省をなさつているものかどうかという点について、疑つている人々がございますから、この機会にあなたの反省なされておる点を、ひとつお聞かせ願いたいと思います。

野原覺

1953-06-17 第16回国会 衆議院 本会議 第8号

承知のごとく、今度の吉田内閣は、古代模様近代主義とをまぜまして、戦後の優秀なる若い大臣を出し、また東条内閣小磯内閣のいわゆる敗戦内閣閣僚中、罪の軽い二等閣僚もしくは三等閣僚を(笑声、拍手)抜擢いたしております。私に言わせれば、戦後の日本民主化に何らの貢献なく、何らの経験なき者が、俄然として吉田総理の好みによつて出たのでありますが、この抜擢の理由いかんということをお尋ねいたしたい。

北昤吉

1952-12-05 第15回国会 衆議院 予算委員会 第8号

情報局が今度できて、緒方あたり総裁になるかしれぬが、かつて小磯内閣の当時のように、サイパン奪還を宣伝したり、レイテ天目山だと宣伝し、レイテが陥ちたら今度はルソンが天目山だという。そういうようなことで再びやつてもらつては困るのであつて、やはり真実真実として語つて、国民に決意を促さなければいかぬと思う。岡崎国務大臣の御所見を問います。

北昤吉

1947-11-13 第1回国会 衆議院 外務委員会 第17号

この請願は前の朝鮮の政務總監をせられ、小磯内閣當時の書記官長をせられた田中武雄さんが、特に私に御依頼になつてここに請願に及んだ次第であります。言葉は少いのでありますけれども、大體において皆樣もこの事情は御承知のことと存じますので、私から多くは申しません。私たちの氣持をお察しの上、何とぞ皆樣方の御支持を得まして、採擇の上當局において善處をせられるようにお取計らい方を願いたいと思います。

川合彰武

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